【書評】山岡ミヤ『光点』
あらすじ
家と工場を往復する日々を過ごす実以子は隣町で父の不倫の現場を目撃する。父が相手の女性に手を合わせて祈る仕草をするのを見た実以子は、それ以降神社に通い、神前に祈りを捧げるようになる。そこで出会ったカムトもまた、妹への謝罪を祈り、欺いた記憶に苦しんでいた。母からの罵倒と迫害を受けながら日々を過ごす実以子と、自身の正しさにさえ苦しむカムト、2人の祈りの果てにはなにが。
※本ページにおける引用はすべて山岡ミヤ『光点』(集英社2018.2)による。
読書感想書評
すっかり葉が散った枝の透きま、そこから漏れる光の先には、プラスチックの弁当箱が捨てられている。きのうから一日も経たないで通るのはおなじ道。何日かまえまでは通らなかった。
『光点』の物語はこのような冒頭からはじまる。光の先には、プラスチックの弁当箱。
ページを繰るごとに冒頭で生じた薄気味の悪さ、薄暗さがこの本の終盤まで続くんだなと思わせる舞台・人物設定。
八つ山のしたを流れる川は隣町までつづいている。夏のたびに溺れ死ぬ人がいるせいか、数日まえも川縁に弔いのための花束が置かれていた。
生きものの骨のような鳥居をくぐると、社務所のかたわらに自転車を見つけた。その横には男がしゃがんでいる。
「これはさ、きみの自転車?」
男がたちあがりながらいう。地面には、冬眠のさなかのはずの蛇がうねり、自転車に近づくことができない。
「ぼくじゃないよ」
「……はい?」
「チェーンのロックをはずしたの」
男が指さした先をよく見るとそれは時季はずれの蛇ではなく、いつも自転車に巻いているゴム製のチェーンだった。
上が実以子の住む川の、下の引用が実以子が神社で出会った青年カムトの登場の場面である。上記の引用を書き写して思ったことでもあるが、『光点』ではひらがなの表記が散見される。一般的な小説作品ではおよそひらがなで表記されないようなものさえもひらがなで表記される。その点もまた、物語に漂う不穏さに拍車をかける要因の一つに他ならない。
しかし一方、不穏さの影に隠れるようにして、もしくは不穏さの影に潜むようにして、作中には光の存在が提示される。その点、最初の引用で示した冒頭の一節は、まさに作品の本質を示していると言っていい。「光の先には、プラスチックの弁当箱が捨てられている」。光の先にあるのが、プラスチックの弁当箱、これは一体どのようにとらえられるだろう。
手帳には工場にゆく時間を記すだけ、短い距離の往復のなかで、つかのま町からでて映画を見たり日用品を買い求めるのが、わたしにとってのひそやかな光だった。
と、実以子は述懐しているのであるが、その光を求めた先で父親と「うつくしくもなければみにくくも」ない女との不倫の現場を目撃してしまう。親子3人で暮らす実以子にとって、父親は自分をかばってくれる唯一の存在だった。それだけに実以子にとっての不安や悲しみも決して小さなものではなかったに違いない。以来、実以子は神社に通い始める。そこで彼女は自身が何かを祈っているとは決して言わない。ただ「祈るかたち」をしていると、その為に神社を訪れているのだという。
どういった理由であれ、自身の行動を変えていくきっかけとなってた父も、結局のところ、実以子が思う程に、家庭への関心があるわけでもない。
振り返ると、父が困った顔をしてわたしを見ていた。いい返さないほうがいいぞ、といってから父はリビングのドアを開けて廊下にいった。(中略)喧嘩ならふたりだけのときにやってくれよ、おれがいるときに、なにかいわれるのはうんざりする
まさに、光の先にあったのは空の弁当箱なのである。そこに中身はなかった。
作中において実以子が決定的な変化を遂げたのは、父の家庭への無関心が露呈される実以子と母親の喧嘩の場面、この時からである。実以子は カムトとの≪遊び場≫であるヤシロへと足を運び、カムトが埋めてしまった過去の残滓を掘り起こし、ことあるごとに逃げ込んでいたヤシロへはもう来ないのだと、カムトに宣言する。
そうして『光点』は幕を閉じる。まぶしそうに眼を細めたカムトの顔を、光をみつめすぎないようにとでも言わんばかりに、覆って。実以子の世の中に対する態度が、ここで示されているようでもあるのだ。
おわりに
元々、ヤシロに視点を置いた作品論を書こうと思ったのだけど、失敗した。ヤシロに比重を置いて書こうと思っていても、いつの間にか話題はそれて実以子とカムトの抱える家庭の問題が中心となっていった。かと思うと、作中に登場する場の力学について考えたりもしていたのが、ようは私が論旨を上手く立てるのがへたっぴだった、ということだろうし、『光点』が捉えどころのない豊かな面白みをもった作品だということでもあるのだろう。面白い。面白かった。早く次の作品を読みたい。僕はこの作品をちゃんと読めたのだろうか? はなはだ不安である。
※書置き
物語に限らず、人のつくったものは、多様な捉え方が出き、そこから意味を読み取ることが出来る。だからこそ、その裏付けは綿密にとることが読み手には期待される。裏付けがなければ、どんな論旨も空っぽにならざるをえないからだ。そうでなければ、読みたいようにしか読まれえない、というなんとも悲しい結果にならざるをえない。自分の人格を揺るがすような、新たな喜びや感覚を吹き込むためには、やはりそれなりの読み方を身に着けるべきなのだろう。誤読したからと言って責められるべきではないが、それは自身とその書物の可能性を狭めることに外ならない。書物には限らず、人や社会やニュースや仕事やあれやこれやと、どれも同じなんだと、思ったのでした。光点は、いかようにも読めるし、ふくらみをもった作品だからか、このようなことを考えたのでした。豊かな可能性をもった、作品だと、思いました。