文芸ポップス

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【書評】マルグリット・デュラス『モデラート・カンタービレ』

あらすじ

 鎔鉱所の社長夫人、アンヌ・デパレートは街で起きた情痴殺人事件をきっかけに、事件の現場でもあるカフェに通うようになる。そこで知り合った元・鎔鉱員のジョーヴァンと酒を飲みながら事件についての会話を交えていく内、アンヌは自身の意志を持って、永い間属していた階級からの脱出を始める。

 

現実から夢へ

 アンヌは息子のピアノのレッスン中に、窓から漏れた女の悲鳴を聴く。はじめは無視してレッスンを続けていたが、次第に外のざわつきは増し、息子やピアノ教師は周囲の騒音を気にし始める。レッスンを終えて外にでたアンヌは女の死体を見つけ、その死体に擦り寄る男の姿を認める。この事件を起点として、アンヌは夢と現実の間で浮遊する存在となる。

 

 この日を境にアンヌは普段の散歩道とは違う道を歩き、彼女が属する階層とは異なる階層の人の出入りするカフェに通いつめることとなる(ここでのアンヌの階層は「雇う者」、対する階層は「雇われる者」、アンヌ=雇う者・ジョーバン=雇われる者、というように)が、アンヌがブルジョワという階層から外れた一人の酒飲みとして描かれるのと同じように、ジョーヴァンもまた、「理由は分からないが」鎔鉱所を去った労働者である(語り手はここで、ジョーヴァンは鎔鉱所に戻ってくるしかないということも予見している。街の誰も彼を雇ってくれないから。)

 

 事件がなければ、アンヌはこのカフェに通うことは無い。真偽は計りようがないとしても、ジョーヴァンもまたそのように語る。二人はこのカフェで起きた事件をきっかけに、普段の生活とは違う空間、密に会話しようにない相手と交流を重ねることになる。いわば、現実では起こりえない夢の中へと足を踏み入れていくのだ。普段踏み入れることの無い場所へ歩みを進めるアンヌは自身の夢へと自ら身を沈める。そんなアンヌにからめとられるジョーヴァンもまた、夢に誘われる存在として描かれる。

 

 二人の言葉が接続する地点は常にカフェのカウンターで、酒を飲んだ状態に起きる。彼らは互いに何も知らない状態で、情痴殺人事件について語り合う。アンヌが問い、ジョーバンが答える。(情痴事件については)「あなたと同じように私は何も知らない」との惹句を添えて。

 ジョーヴァンの想像において、この情痴殺事件は女が男に「自分を殺してくれ」と頼んだ為に起きた事件だとされている。女が男に頼み、男が実行した。女が「殺されたい」「死にたい」という欲望を抱き、男がそれを了承する。その為に起こった事件であると。

 

 二人は酒という道具を使ってより一層夢の深部へと嵌りこみ、会話を深めていく。物語の終盤になると、アンヌは長年属していた自身の階層と離れてゆく。アンヌの回想か妄想か、ジョーヴァンは海でアンヌに思いを馳せている。

 

 アンヌはジョーヴァンと話していたが為に、参加を義務付けられた社交界へと遅刻してしまうのであるが、この社交界において、彼女は、社交界に参加する人々と同じポーズを取れない。彼女がその階層で生きることは困難であることが、確かな理由も無く、緩やかに示されている。

 

 社交界の翌日、彼女はカフェへ向かい、ジョーヴァンに、息子のレッスンに付き添うのは別の女性が勤めることを告げ、彼が「だめだ」といって成し遂げなかったキスを、彼女は彼に対して行う。彼女は「怖い」と言いながら「私はああはなれないわ」(死にたいという願望を伝えて殺してもらうことじゃないかな)と告白する。

 

アンヌは貴族社会からはみ出し、ジョーヴァンは労働者としてあぶれてしまう。二人は共に踏むべき現実を失い酒を煽る喪失者なのである。アンヌはジョーヴァンを求めるようにカフェに通い、ジョーヴァンもまたアンヌを待ち構える。二人の関係は恋と呼ばれる終わりを想定したものではなく、彼女はジョーヴァンに別れを告げてカフェを後にする。

 

「あなたは死んでいた方がよかったんじゃないかな」と物語の終盤で彼女に言ったのはジョーヴァンであったが、対して彼女は言った。

「私はもう死んでいるわ」

 

自身のブルジョア階層に踵を向け、愛を頬めかすジョーヴァンにも背中を向けた。子供のピアノのレッスンは他の誰かに任せてしまった。さあ、彼女はひとりだ。どこへ行くんでしょうね。

 

単調な文章が並んでいるようですが。

 

 ある日、暁方かなんかに突然、彼女は男に対する自分の欲求を悟ったんですよ。自分の欲求が何であるかを男に打ち明けるくらい、すべてが彼女にとって明瞭になった。そうした種類の発見には、ぼくが思うに説明は不可能ですよ。

デュラス『モデラート・カンタービレ』田中倫郎訳 河出書房1985 

 

 アンヌ・デパレートは絶えず飲んでいる、今宵このポマールは通りにいる男のまだ触れたこともない唇の、すべてを忘れさせてくれる味がする。

デュラス『モデラート・カンタービレ』田中倫郎訳 河出書房1985

 

 彼女の口は、異なった飢えに渇き、酒以外の何ものもそれをいやすことができないのだ。

デュラス『モデラート・カンタービレ』田中倫郎訳 河出書房1985

 

 以上の文章は全て本文からの抜粋ですが、どうでしょうか。読んでみたくなりませんか。夢はその風景を見る限りにおいて現実よりも楽なものです。百聞は一見に如かず、というのは、百聞の努力を怠った人間の為の処方箋としてあてがわれることの多い言葉ですが、どうやら本作もその類から外れることはないようですね。夢は聞くよりも見る方が百倍楽しいのです。

 

 さて、現状への逃避として夢を見るという手を打つ人は後を絶えないように思いますが、その夢でさえも足蹴にしてしまう人は一体どれほどいるでしょうか。「だめだ」と諦めた彼の代わりにアンヌはジョーバンの唇を奪っては去ってゆくのですが、彼女は自分の描いた夢でさえも裏切ったのだと言えましょう。貴族階級の人々と自身の差異を自覚してしまった彼女は、きっとそちらに戻ることもないのでしょうが、一体どこへ向かったんでしょうね。

 

狂気? そんなところではありませんよ。夢でも現実でも無いところが狂気だなんて、皆夢がありませんね。

 

どこでしょうか、きっと新しい夢を探している途中なんじゃないでしょうか「モデラーカンタービレ」ってな具合に。息子はきっと、知っていたんでしょう。ゆっくりと歌うようにアンヌが何処かへ行ってしまうということを。嫌がってましたからね。

<完>

紹介

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・『愛人 ラマン』

 

・「アガタ」