【書評】池澤夏樹『スティル・ライフ』
あらすじ
染色工場で働く《僕》は同じ工場で働く佐々井と3ヵ月限定の株式投資を始める。《佐々井》の指令の下、《僕》は投資を進め、万事順調に資産は増え続ける。一定の資産を得た佐々井は荷物をまとめ《僕》の下から去っていく。《僕》の下には少なくない数の金額だけが残った。
所感
先日、教師をしている友人がこんなことを言っていた。「教育において最も重要なのは、自己肯定感を与える問を小刻みに何発も打っていくことだよ」、と。
子どもの為の小説、青春小説においてはどちらかと言うと、ダメな自分を書き手自らがさらけ出すことで、読者に「あっ、俺大丈夫じゃん!」「俺も生きてていいんだ!」と思わせる作品が多い。
例えば、『ライ麦畑でつかまえて』があまりにも有名なサリンジャーの作品群はまさにそうだし、日本だと太宰の『人間失格』や、最近でいうと、僕は重松さんの作品にそれを感じる。
少し毛色は違うけど、村上春樹の初期作品もそうではないでしょうか。往々にして、春樹作品においてはだらしのない男が多い。それでいて、何となく雰囲気が恰好良くて女の子にもてるのだから「くだらんファンタジーだ」(島田雅彦)なんて言われても仕方が無いのかもしれない(僕は好きです)。
……。
それで、今回紹介する『ステイル・ライフ』はまさに、その両者(友人の主張と青春小説の常)の中間に位置する小説なんじゃないかと思ったんですね。
染色工場で働く≪僕≫はフリーターなんだけど、全く悲観的な感情を自分に抱いてない。初出が1988年(まだバブル)ということもあってか、フリーターである、という要素に全くマイナスのイメージを感じさせない。例えば現代では、フリーターと聞くと「貧困」「漫画喫茶難民」と、まあ良いイメージを抱く人間もいないだろうけど、ここでは「貧困」の「ひ」の字も出てこないし、フリーターであることを咎める人物だって一人もいない。当時の本を紐解いてみると「自由を謳歌する職業、フリーター!」なんてコピーが目立つので、フリーターのイメージは当時にしてそう悪くはなかったのかもしれないけど、現代人である私が読んでも、本作に登場するフリーターには全くマイナスイメージが沸いてこない。
―まあ、作中に登場するフリーターやそれらしき人々は金銭的には恵まれているので、いわゆるステレオタイプのフリーターとは違うんですけどね。―
それでも、驚くほどに清々しい。作中の人物たちは毎日楽しそ~に生きています。今それは、社会学者である古市憲寿が『絶望の国の幸福な若者たち』で語った以下のような文章に要因を求められるのかもしれません。
『今日よりも明日がよくならない』と思う時、人は『今が幸せ』と答えるのである。これで高度成長期やバブル期に、若者の生活満足度が低かった理由が説明できる。彼らは、『今日よりも明日がよくなる』と信じることができた。自分の生活もどんどんよくなっていくという希望があった。だからこそ、『今は不幸』だけど、いつか幸せになるという『『希望』を持つことができた。
古市氏の著作が発表されたのは2011年9月、その頃に比べると全体としての自殺率は低下していますが実は、10~20代の若者の自殺率はそんなに変わっていません。
一方、『スティル・ライフ』の発売された平成元年は、ちょうど全体としての自殺率(年齢別のデータが手元にないので、いずれ更新します! が、当時全体としては現在の50%程度の数値ですので、相対的に見て低いことは間違いないかと)が、減少している頃だったのですね。
つまり、当時のフリーターは少なくとも今よりは希望があったということです。
そういうことを、『スティル・ライフ』を読んでつらつらと考えてしまいました。
まとめ
ただ、池澤さんはこれから世の中が悪くなることを予見していたのではないかなとも、思えるんですね。以下、本文より引用
「でも、ぼくは徹底して地球的な、地上的な人間だよ。しばらく前までは、人はみんなぼくみたいだった」
(中略)
「一万年くらい。心が星に直結していて、そういう遠い世界と目前の狩猟的現実が精神の中で併存していた」
「今は?」
「今は、どちらもない。あるのは中間距離だけ。近接作用も遠隔作用もなくて、ただ曖昧な、中途半端な、偽の現実だけ」
「しかし、それでも楽に生きていけるように、人はそのための現実を作ったんだよ。安全な外界を営々と築いたのさ。さっきも言ったように、きみの方が今では特別な人間なんだ」
「知ってるよ」
皆さん、どう思われますか?
それでは